豊中の由来や、歩んできた歴史をご紹介します

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歴史探訪

大阪府豊中市歴史探訪
豊中市の概要
豊中市は、大阪市に接する典型的なベッドタウンとして、昭和30年代から北東部の千里ニュータウンの開発が急速に進みました。市域は、阪急宝塚線豊中駅・岡町駅を中心とする旧豊中地域、千里ニュータウン、住工混在する南部の庄内・豊南地域により形成され、ほぼ全域が市街地です。地形的には、北部が高く南部に行くに従って低地になっており、高速道路、大阪国際空港の玄関、大阪モノレール、阪急電鉄宝塚線などが、大阪府の結節点の役割を果たしています。また、産業は、急激な人口の増加にともない、商業、サービスを中心として発展してきました。

豊中のあゆみ
豊中市に人が住み始めたのは旧石器時代といわれています。遺跡や桜塚を始め、古墳郡とともに分布しており、かつてこの地域がよく開発されていたことを物語っています。

旧名「豊島」の名が文献にみられるのは712年のことで、この地域は豊島地方の中心地であり、大陸から来た人々も多数移住したようです。同時に大陸から伝わったとされる農耕文化(金属器を使用する)もこの地域に広がり、町が急速に発展しました。

鎌倉時代には、承久3年(1221年)、摂津国長江荘と椋橋荘の地頭(職名)が白拍子亀菊の領地を横領し、これがきっかけとなり後鳥羽上皇と鎌倉幕府の間に溝ができ、承久の乱が起こったといわれています。また、太平記によれば、南北朝時代に豊島地方を舞台に豊島河原合戦が行われ、室町時代の応仁の乱でも戦場となりました。

戦国時代の本市域には、刀根山城・勝部城・原田城など、地主、土豪が相ついで居城を築きましたが、新興勢力に滅ぼされ、天正元年(1573年)ごろ、荒木村重の領国となりました。後に、村重が織田信長に反抗して攻められたとき、本市域の村々は兵火に焼かれましたが、織田信長、豊臣秀吉の全国統一が進むにつれ、復興しました。

江戸時代の本市域には、徳川幕府が豊中地方を畿内の重要地域として、支配を確実なものにするため、譜代大名、旗本などの所領を入り混じらせ、さらに天領を支配して、統一を阻止しました。このため明治維新の後も、府県、郡村の離合集散を繰り返しました。

明治43年(1910年)、阪急電鉄宝塚線の前身が開通し、沿線は住宅地として開発されていきました。大阪市に近いという地の利と、起伏に富んだ丘陵地帯は、早くから絶好の住宅地として選ばれ、文教都市の名声が高まるにつれ、人口は急激に増大し、市街地も大きく広がりました。

戦後の発展はめざましく、公営、私営の住宅が建ち並び、都市施設の整備、千里丘陵のニュータウン建設、名神高速道路、阪神高速道路、新御堂筋線、中央環状線等の開通とも相まって、市勢は急速に発展を遂げています。現在は、中心市街地活性化に向けたまちづくりの推進や次世代育成支援対策の推進と子育て支援の充実などの政策を行なっています。


豊中の名前の由来
明治22年4月、地方自治制が施行され、摂津国豊島郡新免村、南轟木村、山ノ上村、桜塚村、岡町村の5ヵ村を合併し、豊中村になりました。これにより豊島郡の中央にあることから名付けられたといわれています。


豊中の歴史についてもっと詳しく知りたい人はこちら↓
 郷土資料室
住所: 〒560-0082
大阪府豊中市新千里東町3丁目1-1(東丘小学校内) [地図を見る]
電話番号: 06-6871-9873
開館時間: 9:00〜17:00
休館日: 土・日・祝日・年末年始
入館料: 無料







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